題肢セットの、いろいろ①

収集するのは「題肢のセットだ」とひとことで言っても、いろいろの性質がある。

「課題と、解」という意味を持つものが、もっとも基本である。 「目的と、手段道具」 「主策と、代替策」 「現状と、次に生起する事象」 「局面と、シナリオ」 「シーンと、せりふ」 これらは、題と肢がパースペクティブな関係をもつ。

これに対して、 「事物と、その属性」 「カテゴリーと、要素」 「クラスと、インスタンス」 「入口と、出口」 は、題と肢の関係がニュートラルといえるだろう。

さらに、 「成立状態と、それを成立ならしめる条件」 「現状と、前提または原因」 という性質のものは、レトロスペクティブといえる。

題と肢がパースペクティブ(展望的、時間前向き的)な関係にあるものだけでなく、ニュートラルなものもレトロスペクティブなものもすべて含めて、「題肢セット」という外形的形式で結わえて収集していくのである。

 

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除外された選択肢がないように、永遠の「題肢セット最適化」

「選択する」ためには「選択肢」が必要です。 「選択肢」は複数から成り立っていることが必要で、一つしかないときは「選択肢がある」とは言えません。

また、複数あっても、実質的には「ひとつしかない」ときも、選択肢があると断定すべきではないという考え方もあります。 たとえば、 「コーラとサーダーとラムネとジンジャーエールを選択肢とするときには、題としては『糖分入りの炭酸飲料、どれにする?』にすべきであって、『飲み物、どれにする?』にすべきではない」という考え方や 「独裁政権が翼賛的政党を複数用意して行う選挙は、自由な選択としての選挙ではない」 という考え方です 「ひとつしかない」かどうかの認定には、意見の対立が生じうるので、問題が複雑化し、深刻化していくようです。

複数の選択肢が存在することの価値はどこにあるのでしょうか?

政党でも販売業者でも、「うぞうむぞうの選択肢はあっても、真に選ばれれるべきは自分だけ」ということを主張し、様々な知見やレトリック使ってそれを論証しようとします。 その論証は、自分以外の「うぞうむぞうの」選択肢が劣っているか無価値だということを選挙民や消費者にわからせ、自分への投票や購入を同意させることにあります。つまり、他の選択肢を除外する決心をさせることにあります。

この論証のプロセスの価値は、真に選ばれるべき自分の選択肢も最初は他のうぞうむぞうの選択肢と並列して展示されるところにあります。

他のを除外したかたちで選択肢が提示されるのと、すべての選択肢が提示されているのと、どちらを好むかは、個人や社会の選好です。前もって不要な選択肢を誰かに除外してもらっていることを好む人々もいるし、除外することなしにあらゆる選択肢を見渡したうえで自分で決めることを好む人々もいます。

私の考えは、市場の屋台のように、比較検討するためにいったんテーブルの上にあらゆる選択肢を並べてみるプロセスを経なければならない、ということです。「精選された選択肢」ではなく「あらゆる選択肢」が前提になっていなけれなばらない、と思っています。選択肢には、最善最良の選択肢から最悪の選択肢までありますが、最善か最悪かの格付けは、比較されながら評価されることではじめて生まれるものです。評価のプロセスなしに前もって何かの選択肢を除外するのは、暴力的な愚行だと思います。

我々の研究作業の中で、収集されてくる題肢セットには、選択肢が偏った状態のものも多くみられます。それらは、公開して人々の参考にしてもらうには不完全ですが、そのような選択肢が存在するという事実と、そのような選択肢の中で生きている人がいるということは重要な事実です。 考古学者が石器や土器の破片のひとつひとつを大事に保存するように、私たちも、収集された題肢セットを、消去や改変されることなくデータベースに保存します。

そうした保存された題肢セットの中から、一般への公開展示に供されるものが指定されます。 公開に際しては、考古学者が破片から復元したものを展示するのと同じように、その題に即したあらゆる選択肢をもっている題肢セットを展示公開することを原則にしています。この原則を、展示に際しての選択肢の「あらゆる化」という呼び方をしています。

とはいえ、公開された題肢セットにも何らかの偏りがあります。 しゃきしゃき★アンサーの閲覧者がそれを見たあと、 「別の選択肢があるはず」と感じたときは、 「わたしなら、これ!」 という投稿をできるようにサイトのページが設えられています。 これが、閲覧する人々とのオープンコラボレーションによる「題肢セットのイノベーション」となって、題肢セットが永遠に最適化されうるサイクルがうまく機能すればいいなぁ、と思っています。

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選択行動の現実

いろいろな選択肢が用意されていても、現実には合理的な選択行動がままならないケースがある。以下に、6つの類型を挙げてみよう。

■類型1: 選択するヒトは、選択行動をとる前に、選択肢のひとつひとつがもたらす結果を予測する。 その予測値を、他の選択肢について行った予測値と比較して、第一選択肢を決断したり、消去法で除外するものを決めたりする。

ところが、選択肢のもたらす結果を予想できないとき、合理的な選択は不可能になる。 1)その選択肢の損得がはっきりしない。 2)その選択肢を採用した場合のリスクがはっきりしない。 3)その選択肢の定義そのものにあいまいなところがある。 4)その選択肢には、さらに細かい選択肢がある。 といったようなケースだ。

■類型2: 利害が絡み合い、あるいは、相手がどう出るかでこちらの態度を決めるのがよいのだが情報不足で相手の意図がわからないときのように、不完全情報を基に選択決定をしなければならないとき、合理的な選択に難儀する。

1)じゃんけんのように、各選択肢の利害が絡み合っている。 2)こちらも相手も駆け引きするときのように、各選択肢の結果の予測値が1局面進むごどに変化していく。 3)その変化のプロセスを管理することで最終的(エンドポイントにおける)予測値を見積もろうとする。 といったようなケースだ。

■類型3: 選択行動そのものを制約してしまう、顕在的潜在的なことがらが存在しているとき、自由に基づく選択行動は不可能になる。制約を打ち破る行動をとるときに受けるであろうストレスや不利益を回避しようとする。

1)他人の目を気にする。 2)空気を読んだり、先方を慮る。 3)特定の選択肢を勧めてくる他人に、さからえない。 4)それを選べばその社会の徳目に反すると糾弾をうけるとき、ビビる。 といったケースだ。

■類型4: そもそも、そのテーマについて、必要十分な選択肢が整っていない、というケース。

■類型5: 選択行動を行うときの心的過程にそれまでの予測行為とは別の事象が影響を与えてしまうことがある。 そもそも無防備で素朴なひとは、厳密に合理的で合目的的なひとに比べ、 1)衝動買いをする。 2)ズルをしたくなる。 3)プライミング効果に引きずられる。 4)だまされ、誘導される。 傾向が強い。

■類型6: 限定された選択肢の中で、「最適の選択」ではなく、とりあえず「満足」「自己満足」するような選択行動。

1)いま手中にある選択肢以上のものがなさそうだが、それでも何か足りないかもしれないという心的シグナルが働く。
2)意識的であれ無意識的であれ、最初から条件をつけて整備した選択肢ばかりだった。

パーティで係りのひと:「たくさんの種類のおのみものをご用意いたしました。どうぞご自由にお選びください」
客:「コカコーラ、ペプシコーラ、サイダー、ペリエ、ラムネ、ノンアルコールのビール。これが、飲み物を自由に選べるってことなの? ガス入りの飲料しかないのに?」

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選択肢研究の方向感③エンドポイントは?

選択肢の研究は、どういう状態になればいちおうの達成といえるのか。 世界中から題肢セットを集めて、その集めたものを一般の人々や研究者や利用してもらえるようになることが、まずもってのエンドポイントだ。

では、世界中から題肢セットを集めるのに、どれくらいかかるか。

国、社会、宗教、民族、習俗、道徳の徳目、美意識が異なれば、選択場面も選択肢集合も異なる。言語が違えば、表現が別物になる。一人で、あるいは、一国の研究者だけで完成できる仕事とは思えない。 IT技術と翻訳技術の応援を受けて、リナックスウイィペディアのような、ある種のオープンイノベーションシステムを運営するのがよさそうだ。 バーチャルとしても、言語圏別に人的な組織化も必要であろう。 研究のロードマップの見当をつけていくだけでも、たいへんな作業になりそうだ。

しかし、私の本音は、もっと気楽に取り組むことだ。

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選択肢研究の方向感②題肢セットの収集というフィールドワーク

世界にはどれだけ「題肢セット」があるのかという素朴な疑問は、私の中では、世界にはどれだけのバクテリアが生息しているのか、というイメージに重なっている。

どんなイメージかというと、、

http://www.nikkei-science.com/page/magazine/201210.html

日経サイエンス2012年10月号の表紙

これはヒトのバイオーム(細菌叢)のイメージ図だ。 バイオームとは、ヒトは丸いのや四角いのや長いのや細いのやあれこれに囲まれて、彼らの働きによって助けられ生きている。地球が大気圏をもつように、ヒトはバイオームをスフィア(圏)としている。この雑誌を読むとその具体的な実態がよくわかる。

選択肢も、細菌叢のようにヒトの周辺にいつも浮遊して「選択肢叢」になっている、というイメージである。

いうまでもなく、選択肢叢がある場所は(物理的な空間ではなく)脳空間の中だ。 それを収集するのが、選択肢研究所のもっとも重要な任務だ。 植物の研究者が草や花や木を収集し、昆虫の研究者がムシを集めるのとおなじことだ。 選択肢の研究で集めているものは、アンカリングされた題肢セットと、アンカリングされずに浮遊する選択肢と、まだ選択肢がひとつもない題だ。 1番目を集めるのはじつに標準的な収集作業だ。 2番目と3番目を集めるのは、相互にマッチングさせて、題肢セットを仮構できるかどうか検討するためだ。この作業で、いままで見えていなかった題肢セットが改めて「見える化」されることがある。

選択肢の収集作業は、人々の頭の中にあるものを言語化してもらい、それを記録していく作業だ。旅行がままならぬ時代に全国各地をまわって民話民俗を収集するフィールドワークに励んだ碩学の労苦を思えば、インターネットを使える時代は本当にありがたい。ひとことで題肢セットを集めるといってもかなり難儀な労力が必要なのだが、生活と社会のそこここに自生している題肢セットを収集し後々にはそれを素材として分析することで、生活や社会の質を、主体的に考える際にも社会的に客観的に論ずる際にも良い材料になるに違いない、と信じることで、これに携わる希望のよすがとしたい。

 

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選択肢研究の方向感①題肢セット、アンカリング、選択場面、

選択という事象の構造からいって、選択肢は、選択行為の前提として欠かすことのできない必須要素だ。選択行為が起きるためには、選択肢がなくてはならない。 逆に、選択肢があるからといって、選択行為が起きるとは限らない。つまり、選択肢は選択行為を必要としていない。 この関係から、私には、「選択肢」の研究は「選択行為」の研究とは異なった色合いになるだろう、という予感がある。

選択肢はそれ自体独立して存在しているのかというと、確かに存在はしているが、それ自体だけだと、いわば浮遊している。「何についての」選択肢なのか、ということが明示されたとき、浮遊状態を脱して、実用に耐える選択肢となる。水中を漂っていた幼虫が成虫になるようなものだ。 浮遊状態を脱することを、アンカリングとでも呼ぼう。

このことについて、くどいかもしれないが、例を見ておこう。<span>(余談だが、「例を見ておく」のは、私の好きな研究手法だ。これは、若いころ米人の先達に『成人に抽象的原理をわかってもらいたいときには、実例をサンドウィッチした話法をつかえ』と教えられたからだ。サンドウィッチ話法とは、①教える「抽象的原理」の定義や本質②実例として、相手が実感できそうなものを示す③抽象的原理の定義と本質を繰り返し、最後に取り上げた実例以上の展開例のヒントを述べる、という話し方だ。余談終わり)</span>

たとえば、次の選択肢は、いったい何についての選択肢であるか?

     

  • やま
  •  

  • かわ
  •  

  • うみ
  •  

  •  

  • のはら
  •  

  • さばく

1:夏休みにキャンプに行くとしたら、どこにするか? 2:部屋の壁に飾る風景ポスターの絵柄を、何にする?

以下、第3、第4のものを、いくつか考えることができるだろう。

もうひとつ例を。

いったい何についての選択肢であるか?

     

  • さかさにする
  •  

  • たたく
  •  

  • ねじる
  •  

  • すてる
  •  

  • あたためる
  •  

  • 押す

1:ドレッシングのふたがかたくて開かないとき、やってみることは?
2:はみがきのチューブの底に少し残っているのを、使いたいとき?
3:子ネコが異物を飲み込んだとき?

選択肢は「何についてなのか」によって、意味が定まる。

「何についてなのか」ということを、選択研究の学術書などでは「選択場面」と呼ぶ。 私は、これを柔軟に考えるのが好ましく感じるので、「お題」と呼ぶことがある。 「お題」と選択肢がペアになったときに具体的な意味が立ち現れるので、お題と選択肢の組み合わせのことを「題肢セット」と呼ぶことがある。

一般に選択肢というときは、複数の選択肢の全体をまとめて指すこともあるが、複数の選択肢のうちのひとつを指すこともあり、どちらであるのか文脈で判断するしかないことが多い。 その混乱や読み手のストレスを避けるために、複数の選択肢の全体を指すときは「選択肢集合」と呼ぶよう心がけたい。とはいえ、逆に、選択肢とだけ記述してある個所が「全体ではなくひとつの選択肢のこと」を指すと約束しているわけではない。

「題肢セット」というとき、題は1件であるに対し肢は複数を想定している。

 

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選択肢的人間観

ひとを選択肢から成り立っているオブジェクトと考える立場を、選択肢的人間観と呼ぶことにしよう。

「ひとは選択する葦である」というわけだ。 「われ、選択す。ゆえに、われあり」でもある。

Aさんを「選択肢」で因数分解したら、a1,a2,a3,a4……という選択肢から成り立っていた、としてみよう。 a1,a2,a3,a4,……を全部集めて組み立てたらAさんができる、という考え方に立つということでもある。

家族でも友人でも同僚でも、その人がどういう選択肢から構成されているひとか、という観点でプロファイリングしてみよう。何かがわかるはずだ。

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選択肢と選択行動

選択行動は、2種類ある、とみなされている。 ひとつは「個人の選択行動」で、もうひとつは「社会の選択行動」だ。

個人の選択行動とは、文字どおり個人が行う選択行動で、わかりやすい。

社会の選択行動とは、選挙制度のように、社会が一定のルールを定めて選択を決定する選択行動だ。これは、個人が行う個々の選択行動の結果を集計するなどして、その結果を社会の選択とみなす、というタイプのものだ。 社会全体ほど大きくなくても、人が集まった組織や団体、小規模な集まりでの選択も、社会的選択行動というものに分類できる。仲良しだけで行く親睦旅行の行先を北海道にするかハワイにするかを選ぶのも、私的な社会の選択行動といえる。

しかし、ふたつの選択行動は、主体が異なるだけで、解決すべき課題が同じなら選択肢は同じだ。

選択肢研究所が主たる研究対象として関心を持つのは選択肢のありようだが、選択行動つまり選択決定が行われる過程の研究にも注意を払う。選択肢は原理的には、選択行動を起こすことを前提として整備されるものであるからだ。

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選択の大事さとしゃきしゃきアンサーのポジション

多くの著作物で「選択が重要」という考えが表明されています。 ここ半年に出版されたものの中から、「選ぶ力」(五木寛之)、「選択の神話」(ケント・グリーンフィールド)、「なぜ選ぶたびに後悔するのか」(バリー・シュワルツ)の3つを選んで、メタ的に一言でまとめてみると、

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人生はすべて選択の連続(五木寛之)であり、 現代は何もかもが選べる時代(シュワルツ)であり、 だが、選択は不自由(グリーンフィールド)であるので、

満足に生きるために選択にどう向き合うか(シュワルツ)、 選択能力を向上させていかに選択するか(グリーンフィールド)、 選ぶことの技法があれば、それは何か(五木)

いま真剣にそのテーマに向き合おうとしているところだ(五木)

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ということで、皆、選択が重要だと言っています。

間違った選択をしないことが重要だという指摘ですね。 まったくそのとおりです。

しかし、著者たちは、

じっさいには、正しい選択は現実にはなかなかむつかしいものだ、

と知っており、

間違った選択を行った場合には、自分が落ち込んだり・周囲から非難をあびたりし、自己責任を問われるリスクのある行為なのだから、そのリスクを避けるために、

正しい選択をする能力を身につける必要がある

という結論を導いています。

その能力とは 1)何が正しいかを見極める客観的な判定判別の力 2)何をしたいかを考えて主体的な思いを深いところから定めること ということです。

客観的にも主観的にも正しく適切な選択ができるような能力を身につけなさい、というわけです。

その忠告に私も同感です。

しゃきしゃきアンサーで公開展示している選択肢のいろいろは、そういう能力を育ててもらうための、ツールでもあります。

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選択に関する良書

「ひとは個人的選択において皆が合理的な理性的な選択をしているとは限らない」という観察や研究は、たくさんあります。 個人的選択の分野では、選択がどのように行われるかを踏み込んで述べたものでは、
「選択の科学」(アイエンガー)、
「予想どおりに不合理」(アリエリー)、
「自滅する選択」(池田新介)、
「ファスト&スロー」(カーネマン)、
「ずる・嘘とごまかしの行動経済学」(アリエリー)
などがあります。これらは、いろいろな心理学的事象を指摘して、人の選択が合理的でないこともけっこう多いことをわからせてくれます。

一方、個人的選択を足し合わせることで設定される社会的選択は、個人的選択が間違っていたとしても、集計された結果は合理的で正しいということになっています。
「社会的選択と個人的価値」(ケネス・アロー)
「集合的選択と社会的厚生」(アマルティア・セン)
という二人のノーベル賞受賞者のものが少々てごわいなら、
「選択の数理」(中村和男ほか)
「合理的選択」(ギルボア)
などが、よりやさしく、理解を助けてくれるでしょう。

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