題肢セットのいろいろ⑨カテゴリーと要素

カテゴリーと要素という性質に着目すると、題肢セットはいくらでも見つかる。

分類学は、専門的には、生物を分類する学問のことだが、どんな分野でも、大分類 → 中分類 → 小分類 → 実体 というような整理は可能だ。デパートでもスーパーマーケットでも分類にそって商品が陳列されている。家電と衣服をごちゃまぜにする新しい試みの店として話題になった「<a href=”http://uniqlo-bicqlo.tumblr.com” target=”_blank”>ビックロ</a>」でも、陳列に分類がないということはなかった。

ところで次の例はどうか。

例1: 題:将棋の駒は、どれが好き? 1:飛車 2:角行 3:桂馬 4:香車 5:歩

これは、「カテゴリーと要素」に似ているが実は、「グループとメンバー」だ。

例2: 題:かぜによい漢方薬は? 1:葛根湯 2:大青竜湯 3:麻杏甘石湯 4:小柴胡湯 以下、たくさんありすぎて、列挙中止。

これも、グループとメンバー。

「カテゴリーと要素」と「グループとメンバー」の違いは何だろう?

観察によっていろいろなものに共通する要素がみつかれば、そのようなカテゴリーを仮構できるというのが古典的なカテゴリー観だ。

例3: 題:赤いもの 1:消防車 2:血液 3:リンゴ

まったくグループになっていないものでも、共通の要素を見つけて、ひとつのカテゴリーをつくることができる。

1:テーブル 2:うま 3:あかちゃん

これを「四本足」というひとつのカテゴリーに属するとみなすのは、ウーム、とんちの世界みたいだ。共通の要素をみつけたといっても、ブッ飛んでいる。 乳で子を育てるという共通要素で哺乳類をカテゴリー化するのとはずいぶん異なっている。 しかし、このぶっ飛び的な認知のありようは、ブレークスルーを生む種であるかもしれない。

「カテゴリーと要素」よりも「グループとメンバー」のほうが、題肢セットとして扱いやすいといいたいわけではない。

「大分類、中分類、小分類」の考え方を応用すれば、ある題1には選択肢11、12、13がぶらさがっているが、選択肢11はそれ自身を題とする選択肢111、112、113がぶら下がっている、というふうに、連鎖するツリー構造の題肢セット群を見つけることができる。

これは、まず初めに、支配的な共通要素にそって行う細分化作業として行われる。次に、より似たもの者同士をまとめてひとつのグループとみなし、そのあと今度は、より似たグループどうしをまとめていく、という2段階の作業になる。 多くの場合、「上位カテゴリー」と「下位カテゴリー」というを分けるカテゴリー化が暗黙のうちに働いてくるので、ネットワーク構造というより、階層構造として認知されることになる。日常的な感覚では、いつの間にか裏が表になるメビウスの輪の構造よりも、先端と底辺が固定している構造のほうが(良しあしはべつとして)脳にとっては楽だ。そういう題肢セットは、発見しやすい。

話は変わるが、

語というものは、その語が想起させる典型的な状況や、そのひとが持つ常識や知識や刷り込まれた印象と切り離すことができない。そのせいで、逆に、平凡な文言だけからなる題肢セットが、遊園地の床が斜めになった錯覚の家に立ち入ったときのように、認知に揺さぶりをもたらすこともある。例1:を、ここに再掲すると、

題:将棋の駒は、どれが好き? 1:飛車 2:角行 3:桂馬 4:香車 5:歩

であった。 一見ふかい意味がありそうにない題肢セットだ。

しかし、ここに提示された題と4つの選択肢の語をみて、「前にしか進めない、吹けば飛ぶような歩でも敵陣にはいると、横にも斜めにも動ける強者の成金になる」といった解釈をもつ人は、大役を担う派手なエリートの飛車角の大駒よりも、戦死覚悟で奇襲突撃を突っ掛ける捨て駒の桂香よりも、歩を好きと気づくことになる。

認知が揺さぶられるかどうかは主体の問題なので、題肢セットがそれを意図しているわけではない。 しかし、認知の揺さぶりが起きるであろうという蓋然性は、複数の肢が列挙されるという構造そのもののなかに、潜んでいるといえる。 公開展示されたたくさんの題肢セットに接触しているうちに、主体の意識が常に複数の選択肢を意識することに慣れていくことが十分に想定される。 これは一種の教育効果ともいえる。選択肢研究は選択肢教育という分野をひらくのではないか、と思う。

所長 の紹介

選択肢研究所の所長です。
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