除外された選択肢がないように、永遠の「題肢セット最適化」

「選択する」ためには「選択肢」が必要です。 「選択肢」は複数から成り立っていることが必要で、一つしかないときは「選択肢がある」とは言えません。

また、複数あっても、実質的には「ひとつしかない」ときも、選択肢があると断定すべきではないという考え方もあります。 たとえば、 「コーラとサーダーとラムネとジンジャーエールを選択肢とするときには、題としては『糖分入りの炭酸飲料、どれにする?』にすべきであって、『飲み物、どれにする?』にすべきではない」という考え方や 「独裁政権が翼賛的政党を複数用意して行う選挙は、自由な選択としての選挙ではない」 という考え方です 「ひとつしかない」かどうかの認定には、意見の対立が生じうるので、問題が複雑化し、深刻化していくようです。

複数の選択肢が存在することの価値はどこにあるのでしょうか?

政党でも販売業者でも、「うぞうむぞうの選択肢はあっても、真に選ばれれるべきは自分だけ」ということを主張し、様々な知見やレトリック使ってそれを論証しようとします。 その論証は、自分以外の「うぞうむぞうの」選択肢が劣っているか無価値だということを選挙民や消費者にわからせ、自分への投票や購入を同意させることにあります。つまり、他の選択肢を除外する決心をさせることにあります。

この論証のプロセスの価値は、真に選ばれるべき自分の選択肢も最初は他のうぞうむぞうの選択肢と並列して展示されるところにあります。

他のを除外したかたちで選択肢が提示されるのと、すべての選択肢が提示されているのと、どちらを好むかは、個人や社会の選好です。前もって不要な選択肢を誰かに除外してもらっていることを好む人々もいるし、除外することなしにあらゆる選択肢を見渡したうえで自分で決めることを好む人々もいます。

私の考えは、市場の屋台のように、比較検討するためにいったんテーブルの上にあらゆる選択肢を並べてみるプロセスを経なければならない、ということです。「精選された選択肢」ではなく「あらゆる選択肢」が前提になっていなけれなばらない、と思っています。選択肢には、最善最良の選択肢から最悪の選択肢までありますが、最善か最悪かの格付けは、比較されながら評価されることではじめて生まれるものです。評価のプロセスなしに前もって何かの選択肢を除外するのは、暴力的な愚行だと思います。

我々の研究作業の中で、収集されてくる題肢セットには、選択肢が偏った状態のものも多くみられます。それらは、公開して人々の参考にしてもらうには不完全ですが、そのような選択肢が存在するという事実と、そのような選択肢の中で生きている人がいるということは重要な事実です。 考古学者が石器や土器の破片のひとつひとつを大事に保存するように、私たちも、収集された題肢セットを、消去や改変されることなくデータベースに保存します。

そうした保存された題肢セットの中から、一般への公開展示に供されるものが指定されます。 公開に際しては、考古学者が破片から復元したものを展示するのと同じように、その題に即したあらゆる選択肢をもっている題肢セットを展示公開することを原則にしています。この原則を、展示に際しての選択肢の「あらゆる化」という呼び方をしています。

とはいえ、公開された題肢セットにも何らかの偏りがあります。 しゃきしゃき★アンサーの閲覧者がそれを見たあと、 「別の選択肢があるはず」と感じたときは、 「わたしなら、これ!」 という投稿をできるようにサイトのページが設えられています。 これが、閲覧する人々とのオープンコラボレーションによる「題肢セットのイノベーション」となって、題肢セットが永遠に最適化されうるサイクルがうまく機能すればいいなぁ、と思っています。

所長 の紹介

選択肢研究所の所長です。
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