「もうひとつの選択肢」という言葉の使い方

前にも書いたが、「もうひとつの選択肢」という言葉は、じつにいやらしい。

「もうひとつ」といいながら、じつは、別の選択肢をすべて否定して、自分の主張する議論だけを正しいとする態度であるからだ。

「選択肢」というものは、じつは、本質的に「戯言(ざれごと)」である。AかBかという、未決定の、自由選択の、さいころ振って決めてもいいよという感じのものだからだ。

それとは逆に、「これしかない」と言い切るのは、戯言ではなく、真剣勝負の言であり、「武士に二言はない」ということである。

「宮廷に戯言なし」ということわざが中華の王朝にはあるそうだが、王朝だけでなく現代の政治においても、「戯言なし」は、守るべきルールだろう。「国民のみなさま、Aという道とBという道があります。どっちにしますか?」というような発言をするような人は政治家の資格はない。

 

 

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テレビの選択

無料で見られる民間テレビ放送45678は、消費生活を活性化させる役目の放送だ。消費しなさい、あんな消費、こんな消費、そんな消費、もひとつ消費、というわけで、24時間365日、放送中は、消費だらけだ。

有料テレビのNHKは、消費生活の応援をするが、文化生活の多様性、社会生活の公平性といった観点も実現されている。

有料テレビのCSでは、無料時間帯は、健康食品と健康グッズと保険の宣伝ばかりだが、外国の生ニュースBBC,CSSををライブでみることで、世界中でいきていることを実感させられる。

 

テレビの楽しみかたのほとんどすべては「娯楽」。ディスカバリーチャンネル系も、娯楽化された知識とドキュメンタリだ。

世界の今を知るためという目的では、BBCが最良だと思う。CNNはエキセントリックすぎる。RTは、ロシアの意見と主張をみるによく、中国電視台は、中国の意見と主張をみるには良い。

 

 

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辛坊氏は??

日テレの日曜午前八時、辛坊氏の司会する番組の調子がおかしい。

2月以来、3週続けて、国内政治の話題を避けているように見える。

国際問題ばかりやっていて、

甘利の口利き問題や、安倍の憲法改正発議の表明など、まったく触れないでいる。

 

マスコミは社会の木鐸であるという使命感を、昔のコメンテーターはたびたび言っていたが、いまの司会者にはその気迫がない。

 

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悪の力(姜尚中)

悪の力(姜尚中 :集英社)

去年出版された本の中で、「一番良い」レベルの本である。

 

9月に発行されたときすぐに読んだ。全体として地味で、姜尚中の書き味としては、なにか疲れたような、気力が失せたような、決断がつかないような、3級の出来と思ったが、ある一点、

「≪なんでもあり≫こそ、悪の根源」

という点だけは、印象に残った。

 

これは、正しい。

 

選択肢の研究をやっていると、

問題の解としての選択肢の範囲に制限を設けることの是非について、いまだ、どの哲学も解答を出しえていないこと

に気づく。

 

つまり、問題の解は「なんでもあり」状態でありうるのであって、かつ、「なんでもあり」状態になってしまうと、それまでありそうに見えた解は、霧散費消してしまうのである。

これが、≪虚無≫ということだ。

 

虚無に陥ると、清原のようなスーパースター選手でも覚せい剤に手を出すし、宮崎のような衆議院議員も浮気の誘惑から逃れられなくなる。

 

ということならば、

自分を律していれば≪虚無≫に陥ることはない、

という人生教訓が引き出せそうだが、ことはそう短絡すべきではない。

「溺れないためには、水にはいるな。自動車事故を避けたければ、ハンドルを握るな」

というような飛躍した仮言命法は、ムチャブリすぎて、現実的ではないからだ。

 

「悪の力」の中で姜尚中も、虚無に対坐するための中心軸を示していない。ヒントになるような話も、印象薄かった。

次の本を期待しよう。

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シャルリとは誰か(トッド)

ISからテロを受けて衝撃を受けてパニックしたフランス。

「シャルリとは誰か」というトッドの本を見るまで、 私は、「フランスもたいへんだ」と、フランスを国民一致のひとくくりで考えていた。  

それは粗雑すぎた。

中流階層とは、上流のセレブ階層や、下流の単純なルサンチマンですぐ切れる階層とは分けて考えるべき階層で、その姿は、一般に良識があるとみなされている知的レベルも低くない人々のことである。今回の事件によって慌てふためき、取り乱しているその姿を、しっかりと見よ。と著者は言っている。  

 

「シャルリとは誰か」と題をつけたエマニュエル・トッドは、フランス中流階層の人々の意識のありようが、問われているのだ、と指摘している。

 

「中流とは誰か」という観点は、重要だ。 「中流の人々」は、特徴ある意識様式を持っている。

1:「他人にやさしく」

2:「他人を傷つけることなく」

3:「他人に介入することなく」

4:「他人の自由を認め」

5:「他人との友情を大事にする」

 

日本の社会に棲む大方の人々も、同じ意識様式を持っている。

だが、ISにテロられたフランスの中流階級は、 パニックし、 イスラム恐怖症に陥り、 フランス社会の価値基盤(自由、平等、博愛)をいったん棚に上げて、 身を守るためというロジックで、 人種差別・宗教差別に陥ってしまった。  

日本人も、いずれ同じように、パニックと恐怖症から、対外差別に陥るのだろうか。

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生活世界の構造(シュッツ)

「生活世界の構造」(ちくま学芸文庫)  

正面切って哲学者が問うことのほとんどない「日常生活とは何か」を六百ページにわたって語っている。

という観点で読めば、この本は、古典的でなかなかよい。

 

現象学的社会学と区分される。 書かれてから50年以上たっていて、つまり、著者は、ネットやメールでの情報のやり取りが日常生活になっている現代のことを知らずに書いている。それでも、たいへん良いと思える。  

 

なぜ良いと感じるか。  

 

大きな話をできるはずの「モダン」な哲学が疑われ、「ポストモダン」な哲学が試みられたが、 その試みは、一歩あるくごとに小さな落とし穴に足をとられる泥沼で、生きているうちにどこへも到達できそうにない徒労感が心身に積った。その体験が、 この本を、良いと感じさせるのだ。  

 

本当に、この本が良いのかどうかは読む者しだいだ。  

賢者の脳の活動は、賢者の日常生活の一部。

詩人の言葉を編む脳の活動は、詩人の日常生活の一部。

画家の画布に描く筆運びを制御する脳神経は、彼の日常生活の一部。

曲芸師の曲芸でさえ、彼の日常生活の一部。

 

すべての根源に日常生活が横たわるならば、「日常生活」を採取して、解剖台に置けばよい。 それを覗き込み、何がうごめいているかを発見して記録し、認識を新たにすればいい。  

 

この本は、そういう根源的アプローチを助けるタイプの本だ。

 

現象学的社会学と分類されるそうだ。個別現象にこだわりすぎては、ただナラティブなだけで、哲学にはなれない。

テレビから流れ来る情報と日常生活者。 SNSというような新しい社交生活をする日常生活者。 現代的なツールの中で生活する者の意識特性について、誰が、哲学の後継者が分析してもらいたいものだ。              

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テレ朝の坪井とフジの伊藤

自民党の、「政治的な公平性を欠く放送」に対して電波停止という脅かしに、テレビ局がビビッている様子が、番組を見ているだけの視聴者にも感じられる。

 

テレ朝、坪井キャスターの朝の番組で、日銀黒田がやった「マイナス金利策」の解説のコーナーがあった。

解説の方向が疑問と批判に傾き、コメンテーターの中尾が自分は外国に引っ越すとコメントしたとき、もう一人のコメンテーターの岸がこの解説は間違ってると強く言った直後に、坪井キャスターは、岸の指摘に乗る形で、マイナス金利政策を擁護する発言をした。それで、マイナス金利に批判的な趣旨に傾きかけていたムードが打ち消され、番組としては、批判してるのかしていないのかわからないような、お茶を濁したかんじになった。

 

フジ、伊藤キャスターの夕方の番組で、ネットの話題を提供する係りの津田大介が、米政府がサイバーセキュリティ対策に力を入れるニュースを紹介した。

アメリカは190億ドルをサイバーセキュリティにかけるが、日本政府の年予算は750億円。と解説。伊藤が「なぜ、日米でこんなにちがうのか」と津田に質問し、津田は「アメリカは実業家のセキュリティ意識が高いが、日本の経営者はセキュリティの金をかける意識が低いため」とコメントした。伊藤はすぐさま、「日本でも経済界もセキュリティにちからを入れている」といったコメントを発言した。あきらかに、「日本の経営者がセキュリティ馬鹿そろいだ」というような印象を視聴者にもたせないための、発言だった。

 

上記のように、二日続けて、メインキャスターのバランス芸をみたので、印象深かった。

 

番組内で「公平性」というのは、「白」と言った後で「黒」と言わねばならないということらしい。これでは、意見や印象や意味や考察を番組に反映させることは不可能だろう。

だが、もうひとつ、日曜の朝、フジで、珍しいシーンをみた。米大統領選挙のコメンテーターで、二人のアメリカ人が呼ばれていた。一人は民主左派的な考えのパックンで、もう一人は共和保守的な考えのケントである。二人は、司会者の誘導にしたがいながらも、自分がどの候補者のどの政見にどういう賛否であるかを、対論してみせた。その結果、視聴者としては、大統領選の状況や今後の見通しのための視点のもちかたが、ひどくわかりやすかった。二人のアメリカ人は、視聴者が候補者の主張や個性の違いがわかるよう、的確に説明できていた。

 

どんなものごとでも両論ある。という主義は、極端な暴論というわけではない。

だが、番組が政治的公平性に欠けるなら、電波を取り上げるぞ、というのは、暴論だ。

政治的公平性に欠ける番組があるなら、次の時間に「政治的公平性をとり戻す」措置をすればよい。

懲罰はいらない。

訂正番組でよいのである。

 

 

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選択肢研究と選択肢教育

題肢セット⑨の最後で、選択肢教育という言葉を書いてしまった。これは、まだしばらく触れないでおくつもりだったが、すこしだけ、私の考えを書いておいてもよいかと思う。

じつは、このブログを開始して半月もたっていないが、「選択肢研究」と5文字熟語でgoogle検索すると、このブログの記事が先頭ページにたくさん出てくるようになった。「選択肢」と「研究」というふたつの語が書かれたページは無数にあるが、5文字熟語として使っているのは、あまり他にないようだ。 それでは「選択肢教育」という5文字熟語ではどうか。google検索してみると、「選択肢」と「教育」というふたつの語が使われてサイトが検索結果の先頭にくる。「選択肢教育」も、5文字熟語として使っているところは、どうやら皆無のようだ。

「選択肢研究」や「選択肢教育」という言葉が見当たらないのは、そういう言葉を使っている人がいないためだが、実際に「選択肢研究」や「選択肢教育」をしている人や組織がいないということではない。

「選択肢研究」という意味で、alternatives research という語を検索すると、日本では「東京大学政策ビジョン研究センター」というところがPolicy Alternatives Research Institute という英語名になっている。alternatives research でざっとみてみると、世界中に、政策の選択肢から動物保護の選択肢の研究まで数えきれないほどある。alternativeは、代替という語に置き換えるほうが多いから、日本ではたとえば、代替エネルギーとか代替医療といったふうな表現で、その特定テーマでの選択肢を研究している。これらは確かに選択肢を研究するものであるようだ。しかしそれらは、「選択肢」ということがら自体を研究対象としているものではない。

「選択肢教育」のほうは、実際に行われている事例があった。 中高生を対象としての「進路選択能力を向上させる教育」や「大学生の食事選択能力を向上させる」ということが検索結果に多く登場する。

その延長線上で、 「自分の行う部活を選択する能力」や 「夏休みの課題図書百冊のなかから選択する能力」 をはじめとする選択能力の向上を図る教育が行われているのではないかと想像してみるのだが、そういう実践の報告はネット上ではみつけられなかった。 ともあれ、個々の特定テーマに絞ってとはいえ、教育界は、選択能力の向上を教育の一つの目標と位置付けているようだ。これは強く支持できる。

私が「選択肢教育」として提案したいのは、もう少し立ち入っている。 たとえば、実生活で直面する前に事前にシミュレートしておくべき「場面と選択肢」は10歳までに100パターン、15歳までに200パターンとか設定して、それを生徒にシミュレートさせて学ばせるというようなことである。

題:友達が持ってるカッコいいシャーペンが欲しい、どうするか?

というような、子供の生活の中で起きうる選択場面を設定して、たとえば、

1:親に言ってすぐ買ってもらう
2:何かのお手伝いをして、褒美に買ってもらう
3:似たようなものをもってる兄ちゃんに譲ってもらう
4:持ってる友達を脅して取り上げる
5:店で万引きする

題:コンビニの雑誌コーナーで、ほとんど裸の女性の写真が表紙の雑誌が目に入った。どきどきした。気になって勉強が手につかない。どうする?
1:その本を買う
2:先生か兄さんに相談する
3:とにかく見たい
4:見てはいけないと自分にいいきかす

などの選択肢を用意して生徒にシミュレートさせるのである。 上の例での、4と5は選ぶべき選択肢として推奨できるはずのないものだが、選択肢には、最良の選択肢から最悪の選択肢まであるのは事実だ。そのようなあけすけな事実を含んだ中で選ぶシミュレーションをすることが、子供たちの選択能力をしたたかに育てることにつながるだろうと、思う。

教育は唯一の正しい真実を教えることだという立場が先に立つと、選択肢教育などはありえないしろものになる。トンデモ選択肢を含む多様な選択肢の中から最良選択肢を見つけ出す能力をつけさせることが、教育の方法論であってほしい。

トンデモ選択肢の魅力に引き付けられがちなこどもたちが、トンデモ選択肢を除外しながら最良選択肢を選ぶようになってくれるかどうか先生や親の心配はつきないが、最良選択肢にまでたどり着かせる教育指導プロセスの原理として、カント倫理学の定言命法を用いることができれば、心配は杞憂に終わるだろう。 そして、トンデモ選択肢まで考慮にいれた思考体験をしたことは、ワクチンのように、後々まで強い免疫効果を維持させるだろう。

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題肢セットのいろいろ⑬現状と、前提や原因

現状に至った理由を求めて前提や原因を詮索すると、「ああでもない・こうでもない」という事態になる。「題肢セットのいろいろ」の最後にとりあげるのは、そのような題肢セットのことだ。

例1: 題:空が青い、理由は?
1:冬だから
2:放射冷却が起きたから
3:台風一過だから
4:風が強いから
5:白鳥が染まずに漂うため
6:青の波長の光のほうが透過しやすいから

題の後ろに「その理由は?」「その前提は?」「その原因は?」をつけると、このタイプの題肢セットができる。 「問題を解決したいが手掛かりをみつけられないときは、まず、この題肢セットを設定するところから始める」という手をやってみるとよい。5と6のように、詩人が好むものと科学者が好むものが混在して何だか趣旨が混乱してしまうこともあるが、せせこましく制限するよりはいいのではないか。 問いかけるだけで理由や原因が見つかるほどたやすい課題ばかりではない。 だが、手ごわい課題も「揉みほぐす」ことからはじめれば何とか道筋が見え始めるものだ。

現状の事態が起きた理由を列挙するという作業は、対象を認知し思考するという作業だ。過去に向かって経緯をさかのぼるという事実認定の作業でもある。

このタイプの題肢セットでは、唯一の絞り込まれた根本原因を肢として仮構できるものもあるが、それができずに、中間的な事象を仮構した状態で見出されるものが、むしろ、多いようだ。それらは中途半端で未完成なのではなく、未固定であるだけだ。 未固定というのは、 ・原因が特定できない ・原因や理由について、どちらともいえる。どちらもありうる という状態のことだ。

例2: 題:こんなことになってしまった責任は?
1:担当者が悪い
2:担当者の上司が無理強いしたのが悪い
3:現状にあわない制度が悪い
4:予算がないのが悪い
5:下請けが悪い
6:最初はこれでいいといったのはあんたじゃないか!

しゃきしゃき★アンサーで題肢セットを分野に分けているが、分野の一つに「論争」を立てている。 論争の多くは、「現状に至った原因についての見解が異なる」ことから始まり、ときには、皆がうんざりする「諸説ふんぷん」の状態にいたることもあるが、諸説の中には真実を言い当てているものがあるかもしれず、そういう意味では、ふんぷんたる諸説も選択肢そのものでもある。不毛な選択肢ばかりのものもできかねない。

原因分析や現状分析を的確に行えたときは、多様な選択肢の中から一つだけが残る。 が、現状に対して唯一の原因しかないということはむしろ例外的で、トリガーとなる起因はひとつでも、現状にいたるまでに「悪いことが重なるもので、、、」という二次的三次的な因や経緯が複合してくる。

Aという事態にBという事態がくわわったために、今のCという事態に至っているということであれば、そういうAとBの複合を指摘できる個所とは、もし複合が起きなければという別の事態との分岐場所でもある。Bとの複合がなければCという現状もないといえる可能性があるなら、Bを複合するかしないかを主体が自分の意思で選びうる性質のものでなくても、そのもっと昔の段階でBがそもそも生起することを断ち切っていれば、Cは起こりえなかったのではないか、ということになる。 目配りをきかせた、あらゆる可能性うを見落とさないゾという姿勢は、題肢セットに欠かせない。 ただし、「今の私の現状は、祖父と祖母が父を生み、その父と母が私を生んだことにある」といった類の、飛躍した見解ばかりでは、人を納得させることはできない。

例3: 題:上流でダムが放水して川が氾濫した、どうしてくれる?
1:ダムの人:異常な降雨量で、ダムの決壊をさけるためです。ダム決壊なら住民全滅だ。いまは一部の洪水被害で済んだ。責任を問われるすじあいの話ではありません。
2:市長:住民に避難命令をだした。職員の全員がずぶぬれになって住民に危険を知らせてまわり、避難誘導した。最大の努力をしました。
3:地元テレビ局:危険な堤防に中継車を出してライブで危険を中継した。危険は十分みなさんに報道できたはずです。
4:地元議員:政府にかけあって激甚災害の指定をうけ、おおいに救済の金をとってきます。
5:住民:ひっこししましょう。

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題肢セットのいろいろ⑫状態と条件

例1: 題:法案Aに賛成か反対か?
1:修正Zを条件に、賛成だ
2:原案Aから、条項Mを削らないなら、反対だ
3:そちらが法案Bに賛成するなら、賛成しよう

「状態と条件」という性質の題肢セットとは、選択肢が条件付きになっている題肢セットのことだ。選択肢そのものが、複数の選択肢からの選択を問う題になっているのだ。取引の逆提案に限らず、このタイプのものも、世の中にあふれている。たとえば、

例2: 題:結婚記念の写真、どうする?
1:花婿のネクタイは、白かゴールドか?
2:花婿の靴は、黒か白か?
3:花嫁は、洋装か和装か?
4:花嫁が手に持つのは、ブーケかバッグか?
5:準備の疲れによる肌荒れは、修正するかしないか?

例3: 題:肉料理は、どうなさいますか?
1:ブランドは、神戸か、松坂?
2:調理法は、炭火焼か、ロースト?
3:ソースは、フォアグラソース系か、デミグラスソース系?
4:付け合わせは、たまねぎか、クレソン?

これらは、選択肢そのものが「題」になっている。意味としては、題肢セットというより、「主題=支題」のセットだ。

こまごました「option」なるものを決めないと注文そのものを受け付けてもらえない場面や、質問に質問で返してくるシーンに見かけられる。「題の意図するところがおおざっぱなので、特定した選択肢を用意するために中間的な分岐を設ける」場合に発生することが多い。

例2の場合には、2択の分岐をもつ選択肢が4つあるので、場合分けの数としては、16種類ということでもある。中間的な分岐の選択肢を設けるより、最初から16種の選択肢を用意するのがよさそうだ。

ただし、主題=支題タイプの題肢セットも、その主題が不完全だという意味ではない。 「支題での選択が定まらないと、主題の解を決めることができない」というロジックは一見もっともだが、支題での選択がどっちにころぼうと、主題の解には影響をおよぼさないことも多い。

条件付きの選択肢では、選択肢を比較検討する評価関数を確立するのに、「異次元な」困難を呼び起こしてしまう面白さがある。

例4: 題:結婚を前提にお付き合いくださいと、申し込まれた。どうする?
1:お金持ちなら、半分了解。
2:高学歴なら、半分了解。
3:親と同居でなければ、半分了解
4:お金持ちで、高学歴で、親と同居でなければ、まあ、了解
5:貧乏でも、入り婿する気があるなら、了解
6:結婚を前提と決めなければ、つきあってもいいヨ

条件によって選択が変わる事象の研究は、ゲーム理論研究の主幹するところだ。 何らかの主題にどんな「条件付き選択肢」が仮構されているかを題肢セットとして収集するのは、私たちの役目のひとつでもある。

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